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​私たちの信仰

私たちキリスト兄弟団仙台教会は、

プロテスタントの伝統的キリスト教信仰を継承する教会です。

​三位一体の神

 神は唯一で天地万物の創造主であり支配者です。またただひとり礼拝され愛されるにふさわしいお方です。

 神は初めから父、子、聖霊という三つの人格的主体であり、クリスチャンが自分をささげるべき唯一の神です。父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊は自存し、平等で、永遠に共存します。この三つの人格は完全に神の本質を分かち持っています。

 この三者はひとつの人格によって演じられた3つの役割(一人芝居)ではなく、またひとまりになった三つの神々(多神教)でもありません。唯一の神は「彼」と呼ばれるのと同様に「彼ら」とも呼ばれ、いつもともにおられ、いつも協力しておられます。

創世記1;1, 26-27, 3:22, 詩編90:2, マタイ28:19, Ⅰペテロ1:2, Ⅱコリント13:13

神の子イエス・キリスト

 イエス・キリストは父なる神と等しく、礼拝されるべきお方です。またイエスは真の神(100%神)であり、真の人(100%人間)です。

 イエスはおとめマリアより聖霊によって生まれ、その生涯において一度も罪を犯したことがなく、全人類の罪を赦すために十字架にかかって死なれました。しかし、三日目に父なる神により死からよみがえられ、全ての人間がもつ罪の呪いである死を打ち破り、よみがえりの初穂となられました。

 そして天に昇り、今も生きておられ、いつの日かすべてを裁き、全世界を治めるために再び来られるのです(キリストの再臨)。

​マタイ1:22-23, イザヤ9:6, ヨハネ1:1-6, 14:10-30, へブル4:14-15, Ⅰコリント15:3-4, ローマ1:3-4, 使徒1:9-11, Ⅰテモテ6:14-15, テトス2:13

​聖霊

 聖霊は父なる神と御子イエス・キリストを等しく、礼拝されるべきお方です。聖霊は私たち人間がキリストによる救いについて気づかせ、罪の自覚と悔い改めることができるように働いておられます。

 そしてイエス・キリストの救いを信じて受け入れた人の内に住んでくださるのです。聖霊はクリスチャンに霊的賜物、生きる力、真理を理解する力、正しい判断をする知恵、その導きを与えてくださいます。

 私たちクリスチャンは日々、聖霊の導きを求めて歩んでいきます。

Ⅱコリント3:17, ヨハネ16:7-13, 14:16-17, 使徒1:8, Ⅰコリント2:12, 3:16, エペソ1:13, ガラテヤ5:25, エペソ5:18

​神のことばである聖書

 聖書は私たちにとって神のみことばです。また私たちは66巻の文書によって構成される聖書を聖典としています。これはかつて聖霊の不思議な導きによって人間の手によって書かれたものです。よって聖書から神とその思いを知り、神が天地万物を創造された永遠の計画と目的を理解し、イエス・キリストへの信仰による救いを与えることができます。

​ また聖書は神の霊感を受けて書かれたもので、そこには誤りはなく、信仰と生活の最高の基準です。

Ⅱテモテ3:16, 1:13, Ⅱペテロ1:20-21, 詩編119:105, 12:6, 箴言30:5

人間について(神のかたち・原罪)

​ 神は人をご自身のかたちとして創造されました。したがって人間は他の動物や生き物、自然物と異なっています。地上において神の代理人として行動することができます。

 神のかたちとは、人格的、理性的(知性と意志をもち、計画を立て実行すること)、創造的で、世界を支配することができ、道徳的にも賞賛されるべきご性質のことです。また本来は不死であり、身体を通して現実を経験して、自己を表現して世界を治めていく存在でした。

​ しかし今の私たちは罪の奴隷であり、神の聖さを映し出すことができなくなっています。それは最初の人アダムの罪を継承し、人間は生まれながらにして心もからだも全てが堕落しているのです。

 原罪とは、神の支配に対する高慢と敵意、神が定めた的(使信)を外すこと、自らを汚すことによって神のきよさを汚すこと、また自己中心です。私たちが罪を犯すから罪人なのではなく、私たちが罪の奴隷としての性質を持って生まれた罪人であるから罪を犯すのです。

 よって罪人というのは、神と神のことばに対して真実で真心から応答する能力がない状態、すなわち死んだ状態なのです。ですから、人は生まれながらにして罪のうちに死んでいるので、善から離れ、自らを回心させるとか、回心の方向に向かうことすらも自力ではできないのです。そういうわけで人は罪からの救いを必要とし、本来の神のかたちへと回復していく必要があるのです。

創世記1:26-27, 詩編8:3-6, イザヤ53:6,  ローマ3:23, イザヤ59:1-2, エペソ4:24, コロサイ3:10, ヨハネ4:34, 5:30, 6:38, 8:29, 46, ローマ6:4, 5, 10, 8:11, 創世記2:8, 3:6, ローマ3:9, 19, 5:17, 21, 1:18-3:20, Ⅰ

コリント15:22, Ⅰ列王記8:46, ローマ7:18, Ⅰヨハネ1:8-10, 詩編51:5, エレミヤ17:9, マタイ12:30-37, マルコ7:20-23, ガラテヤ5:16-21, エペソ2:1-3, 4:17-19, へブル3:12, ヤコブ2:10-11, Ⅰヨハネ3:4, 5:17,

ヨハネ6:44, ローマ8:7-8, コロサイ2:13

救いについて(新生)

 私たちは、自分の努力や善行によっては、決して自分の罪を償うことはできません。ましてや「多くのお金を積めば天国に行ける、天国では良い暮らしができる」ということも決してありません。

 救いは神からの無償の贈り物です。それを御子イエス・キリストを信じて、自らの罪に対して神からの赦しを受け取ることによってのみ、私たちは救い出されます。ただイエス・キリストを信じる信仰によってのみ永遠の生命が与えられるのです。

​ローマ6:23, エペソ2:8-9, ヨハネ14:6, 1:12, テトス3:5, ガラテヤ3:26, ローマ5:1

​永遠の保証について
(キリストの再臨・審判・新しい天と新しい地)

 イエス・キリストを信じることでクリスチャンには永遠の生命が与えられます。それはただ神さまの一方的な愛と力によって救いは保たれるので、決してクリスチャンの善行や努力によるものではありません。

 またいつの日か、天におられるキリストはもう一度この地上に来られます。その日がいつだというのは父なる神以外は誰も知りません。ただその時、全ての人は生き返り、一人ひとりの人生の在り方が問われるのです(最後の審判)。そして罪ある者とみなされた人は、神から永遠に見捨てられます(地獄)。しかし、罪が赦され義しい人とみなされた人は、神と共に新しいからだが与えられ、永遠に新しい天と新しい地で生きることになります。

 私たちが今生きている人生というのは、永遠の尺度から見ればほんのわずかなのです。このわずかな人生のうちに、永遠に苦しむのか、永遠に神の国で生きるのかに分かれるのです。

ヨハネ10:29, Ⅱテモテ1:12, へブル7:25, 10:10, 14, Ⅰペテロ1:3-5, ヨハネ3:16, Ⅰヨハネ2:25, 5:11-13, ローマ6:23, 黙示録20:15, マタイ25:46

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